ロイヤル室町に居た時に、2度3度とこの言葉が頭に浮かびました。
なぜ今? 何の関係があって?
あまりにも意味が分からなかった為に
口には出さなかった(コワかったのかも知れません)
けれど、声に出して見るべきだったのかもと今にして思っています
「木の上に立って見ているモノ」それは漢字で書くと「親」
もう一つの言えなかったこと、聞けなかったことを
拓美さんに聞いてみました link
@nagayamatakumi 直接言う機会がなかったというか、言いそびれてしまったことですが、拓美さんの後ろにいるのはいったい誰?何者?見えるわけではないのですが感じます。拓美さんの目を通して常に一緒に見ている存在を。何というか、存在感ありすぎ(笑)
それに対する返答は link
@IshiiHironaga それは、ある意味「石井宏長」である。
これには正直参ったとしか言いようがない
この言葉の意味と真剣に向き合うしかない
それとは別に、先日の投稿に頂いたコメント
makonii さんが投稿「そして誰もが全員...」(コメントが言っていることが分からない方は、先日の記事とコチラを見て下さい)
にコメントを書き込みました。
「畏怖」する「能力」
>神に対して不義理を働いていることを、自分がどこかで感じているから。 それを咎められるような気がして、 それがコワサの正体なのではと思っていました。
私も、まさにそう思っていました。
しかし、この「神」を「自分」に置き換えたとき、それが「鏡」で。
「神社」の御神体が何故「鏡」であるのかの真意も。
「長谷章宏」=「長谷真由美」=「長谷結理」=「長谷結理花」は「透明」の存在であり、=「自分」「真澄の鏡」 とはこのことなのだと。
>。鏡..自分のことは本当に分からないです、ピンと来ません。
だからこそ、外に「鏡」が現れる、ということでしょう。
石井さんが「天祖神社」に吸い寄せられたのは、「自分が自分であるところのものに遭遇する」「近しさの法則」 です。
とすれば、今この時期、私が石井さんにお会いしたことも「近しさの法則」であり、石井さんに私が「畏怖」(コワサ) を感じたのは、私自身が「本当の私自身」に対する「畏怖」 を思い出すための出会いだったのだと。
=長谷章宏の、=長谷真由美の、=長谷結理の、=長谷結理花の・・
=全ての存在の。
コワさの正体は、鏡を通して自分と向き合い、知ることなのか?
そうなのかもしれない
拓美さんも、makonii(齋藤さん)も同じ事を言っている気がする
それとあの時あの言葉を口に出せなかったのも、同じコワさを感じていたからとも思える
やはり言っておくべきだったのか? 今更だけど
けれど、「木の上に立って見ているモノ」とは誰のことなのか?
親? 神? それとも自分自身? 全て?
もう一つ思い出したことがある
私は鏡に映る自分の目、瞳の中心の黒い部分を見ることが出来ない
なぜかは判らないが、見ようとして焦点を合わせると
途端に気が遠くなる、意識を失いそうになる
3秒と持たずにひっくり返りそうになるので
仕方なしに目をそらす
これも同じコワさがあるからなのか
何かを知ることを恐れて拒否しようとしているからなのか
ある人に「本当は見れないワケを知っているんでしょ、だから見れないんでしょ」と言われたことがある
その時はそんなバカなと否定したが
実際にはその通りなのかもしれない
まだ答えは見えないが、結構近い所まで来ているようにも感じる
追記
木は、生命の木でもあり、梯子でもあり、階段でもあると言うふうに感じています。
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