2011/05/29

木の上に立って見るモノ

「木の上に立って見ているモノ」

ロイヤル室町に居た時に、2度3度とこの言葉が頭に浮かびました。

なぜ今? 何の関係があって?

あまりにも意味が分からなかった為に

口には出さなかった(コワかったのかも知れません)

けれど、声に出して見るべきだったのかもと今にして思っています

 「木の上に立って見ているモノ」それは漢字で書くと「親」


もう一つの言えなかったこと、聞けなかったことを

拓美さんに聞いてみました link


@nagayamatakumi 直接言う機会がなかったというか、言いそびれてしまったことですが、拓美さんの後ろにいるのはいったい誰?何者?見えるわけではないのですが感じます。拓美さんの目を通して常に一緒に見ている存在を。何というか、存在感ありすぎ(笑)

それに対する返答は link
@IshiiHironaga それは、ある意味「石井宏長」である。

これには正直参ったとしか言いようがない

この言葉の意味と真剣に向き合うしかない


それとは別に、先日の投稿に頂いたコメント
makonii さんが投稿「そして誰もが全員...
にコメントを書き込みました。

「畏怖」する「能力」

>神に対して不義理を働いていることを、自分がどこかで感じているから。それを咎められるような気がして、それがコワサの正体なのではと思っていました。

私も、まさにそう思っていました。
しかし、この「神」を「自分」に置き換えたとき、それが「鏡」で。
「神社」の御神体が何故「鏡」であるのかの真意も。
「長谷章宏」=「長谷真由美」=「長谷結理」=「長谷結理花」は「透明」の存在であり、=「自分」「真澄の鏡」とはこのことなのだと。

>。鏡..自分のことは本当に分からないです、ピンと来ません。

だからこそ、外に「鏡」が現れる、ということでしょう。
石井さんが「天祖神社」に吸い寄せられたのは、「自分が自分であるところのものに遭遇する」「近しさの法則」です。
とすれば、今この時期、私が石井さんにお会いしたことも「近しさの法則」であり、石井さんに私が「畏怖」(コワサ)を感じたのは、私自身が「本当の私自身」に対する「畏怖」を思い出すための出会いだったのだと。
=長谷章宏の、=長谷真由美の、=長谷結理の、=長谷結理花の・

=全ての存在の。
(コメントが言っていることが分からない方は、先日の記事とコチラを見て下さい) 


コワさの正体は、鏡を通して自分と向き合い、知ることなのか?

そうなのかもしれない

拓美さんも、makonii(齋藤さん)も同じ事を言っている気がする

それとあの時あの言葉を口に出せなかったのも、同じコワさを感じていたからとも思える

やはり言っておくべきだったのか? 今更だけど

けれど、「木の上に立って見ているモノ」とは誰のことなのか?

親? 神? それとも自分自身? 全て?


もう一つ思い出したことがある

私は鏡に映る自分の目、瞳の中心の黒い部分を見ることが出来ない

なぜかは判らないが、見ようとして焦点を合わせると

途端に気が遠くなる、意識を失いそうになる

3秒と持たずにひっくり返りそうになるので

仕方なしに目をそらす

これも同じコワさがあるからなのか

何かを知ることを恐れて拒否しようとしているからなのか

ある人に「本当は見れないワケを知っているんでしょ、だから見れないんでしょ」と言われたことがある

その時はそんなバカなと否定したが

実際にはその通りなのかもしれない


まだ答えは見えないが、結構近い所まで来ているようにも感じる



追記

木は、生命の木でもあり、梯子でもあり、階段でもあると言うふうに感じています。

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