2011/05/29

木の上に立って見るモノ

「木の上に立って見ているモノ」

ロイヤル室町に居た時に、2度3度とこの言葉が頭に浮かびました。

なぜ今? 何の関係があって?

あまりにも意味が分からなかった為に

口には出さなかった(コワかったのかも知れません)

けれど、声に出して見るべきだったのかもと今にして思っています

 「木の上に立って見ているモノ」それは漢字で書くと「親」


もう一つの言えなかったこと、聞けなかったことを

拓美さんに聞いてみました link

2011/05/28

そして誰もが全員...

京都へ行くことが決まる前日

15日のその夜、始めて林さんと電話で話をしていた

どういう会話の流れで出て来たのか覚えてはいないが

非常に印象に残る言葉を言われた

長谷章宏が4人5人と現れて来ればいい

いや、いっそのこと全ての人が長谷章宏に成ってしまえば一番いい


そうだ...

よく分からないが、きっとそう言うことなのだろうと思った

2011/05/24

くもん

算数の方じゃなくて、苦悶

思い出して、頭を抱えたり

一人で身悶えして、脚をバタつかせてみたり


嘘はなかったし、撤回したいわけでもない

けれど、納得してない、何か変、

何だったのアレ(あの時の自分)はという感じ

で、また思い返して一人でジタバタ


アホやねぇ、まだカッコ付けたがりが残っているということなのかな?


でも、わかった振り、賢い振りするより、見たまんまのバカを晒していきます


その程度の奴ですよ私(笑)

自己卑下とかじゃなくて、そのまんまの事実

2011/05/23

生命と縮図

頂いた資料等に何度も目を通しながら、関係者の皆様方がそれぞれに役割を果たされて、ようやく今があると、今更ながらに実感しつつあります。

まだ終わりではありませんけれど、とりあえずこれまでのところについてはお礼を言わせて下さい。本当にありがとうございました。



京都へ訪れたのは、高校の修学旅行以来だから四半世紀以上、30年近くにもなるはず。

当然京都の住宅事情のようなものは、一切知らない、わからない。

だが、東京都内で何度も引っ越した経験や、これまでに訪れたことのある住宅と比べてみても。また、専門家では無いがマンションや公共の集合住宅の建築にある程度関わってきた経験、これまで見てきたものと比較しても。

「アーバン紫園」「ロイヤル室町」共に異常性が際立っているように感じた。(あくまでも、京都の普通を知らない視点ではあるが)

2011/05/22

謝罪と感謝

昨日の補足のようなことですが

私はあのとき真由美さんに何度も繰り返して「ごめんなさい」と「ありがとう」を言っていたと思います(「ごめんなさい」の方が多かったかな多分)

これはどっちも一緒というか、切り離せないというか

表裏一体、同じことだと思っています


どういう事かと言いますと

本当に全部受け止めてたんだなと、そんな感じがして

その中の一部は、本来なら私が自分で引き受けなければいけないものだった

それを知らずとはいえ、勝手に押し付けるようなことをして来ていた

そんなふうに思えて

だから、「ごめんなさい」「本当にごめんなさい」

その他に思い浮かぶ言葉なんか無かった

それと同時に、私がしなければいけなかった事を

ずっと代わりにして来てくれていた事に「ありがとう」

これが、あの時の私の気持ち

表面上は逆にもとれる言葉だけれど

切り離せない同じ事の表と裏だった

どれだけ繰り返しても、全く話にならないくらい足りない

そうは思うけれど、他の方法も分からなかった


今の私は、自分の分を担当出来る位にはなっただろうか?

たぶん、まだ出来ていない

けれど気持ちだけでもそうありたいと思っています



皆さんの目に映っていたことは何でしたか?

質問があれば、何でもお答えします

うまく説明出切るかどうかは分かりませんが

2011/05/21

月の夜

いずれ、もっと詳しく書けると思いますが、その前に、ちょこっとだけ説明しておきたいと思います。


真由美さんの前での、私の行動が一体なんだったのか。

全体としての意味は私にも分かりません

ですが、誰にでも分かりやすく、おそらく結構大切だと思うことについて